水と光

日本各地、世界各地の水とフィールドのエネルギーを転写し受け取ってきました。水と光、その場、聖地、そのエネルギーに触れる。それが誰かの助けになるのなら、、。


ディー・エッセンス(名称仮)

わたしのワークの根本である、バイオエナジェティック・オステオパシーの世界観、そして、そのカリキュラムの中で学んだ植物療法の世界観をベースとしてフラワーエッセンスのように、しかし、オリジナルの手法(バイオエナジェティックの世界観)で作った自作のエッセンスです。

 

  • どのようにして、作ったのか?

湧き水を汲み、その地に赴き、その地にいながら、ガラスボウルに水を注ぎ、そっと置く。その時々で違いますが、静かに待つ。数分で完成。そのフィールドのエネルギーの転写、太陽光、その場、聖地、水、光、空気、、様々な要因があります。この土地に来られない人たちがいる。不思議なご縁でやってきた、わたしがそこに来た者として、受け取ってきたものです。

 

  • わたしが作ったモノではない

エッセンスはわたしが作ったモノではありません。”わたし”が入らないこと。バイオエナジェティックの世界観ではそれが最も大切、”意図”がないこと、”意図”を持たないこと。人間の意図が関わり始めると途端に混沌が始まり矛盾が起こります。われわれ施術者ができることは、なにもない。ただ、ただ自然界の秩序に沿う、従うことができるだけ。人間の”治したい”は混沌を生みだし、危険なこと。わたしの”願い”など持ち込んではならない。

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”正しい意図”の持ち方というのがあるのなら、その”意図”は自分のやりたいことを持ち込まないこと。その”意図”は自然界の秩序に従うという意図。自分を混ぜないという意図。エッセンスを作らささせていただく、という場の設定をする、あとは自然界を司る大いなる者に完全に従う、という意図。透明な自然界の秩序の持つ意図。(わたしのやりたいことをするという”意図”は持ち込まない。わたしという我=エゴを持ち込まない。)

 

  • 純粋性

純粋であろうとすること、綺麗であろうとすること、、。透明であること。それは、最も大切なことではありますが、施術者としてもそうあることからしか、施術はできませんが、しかし、画一的に全てにそれが当てはめて良いものか?どうも、そうではない、という気が最近しています。

 

バイオエナジェティックの施術に於いて、施術は、最も精妙な世界に降りて行って、そこから始まり、常にそこにいながらにして、粗い領域(肉体、感情の体、思考の体)まで扱っていき解消が起こっていきます。感情の体の領域、もっとも病変が多く、混沌が起こり、エネルギーの奪い合いの領域、エゴの社会が動いている世界。我々はこの領域の取引の中で生きている、人間社会。しかし、ある段階にきたときそこからシフトせざるを得ない、という時が、体の変化とともにくるようです。(それは、どんな分野でもそうだと思いますが。)感情に対して想いや思考では対処できない、よりエネルギーを得て混沌が増していく。解消するにはもっと静かな領域から対処する必要がある、、最も静かな領域、人間のエゴを通り抜け、自然界へ到達する、、そして、その自然界を司る秩序、それを人によっては神秘というかもしれない、生命の秩序の領域に、、静かになっていく。そこから、施術は始まり、そこから施術は導かれ、そこで終わります。

 

そこで、出てくる疑問は”悪”とはなにか、不純であり、排除されるべきもの。しかし、ビュア、純粋であろうとする時、エゴが強まる。排除、出て行ってもらう、、払い、切る。それは、きっと必要なことである。が、それだけでは、終わらない。たぶん、それだけを、しようとするとき、知らずにエゴは拡大し、(気付かぬうちに範囲を狭め自分の裁量で起こり得ることを限定している。)自分は綺麗であろうとする、しかし、そうはならない。あるとき、もしかして?自分などない、存在はするが、ない。空性ってなに?自分が思っているようには、事物は存在していない。空であるから、変化できる。って?

 

肉体、感情、メンタル、、そこまでの範囲は、個性の範囲。その外側にある、、最も精妙な世界。

 

個性の範囲、そこにある、悪は、排除するべきでしょう。とくに、感情に関わってくるモノは、切る必要がある。しかし、同時に、最も精妙な世界のレベルでは決して切ってはならない、、。チベット仏教のお坊さんに聞いたんですが、、。

 

全ての存在は、輪廻の中で、苦しみの中にある。誰しも苦から離れ楽になりたい。悪霊の類、汚れの類もそう。それらは、入ってこないように、払い、清め、切る必要はあるでしょう、が、そのモノたちも苦から離れ、幸せになりたいという存在、最も精妙なレベルの世界では、そのもののためにも、我々は働く。

 

なんか最近そんなことを考えるんです。

 

  • 我々ができること

とはいうものの、悪の類はとんでもない力を持っています。とうてい、人間になど太刀打ちできません。いつか必ず負ける。その力に対抗しようとしても、できるもんではない、それほどの強大な力です。我々ができることは、それに対抗するのではなく、秩序を司る領域で施術をすること。その光が、全ての存在を助けるように。そして、感情や想いで決してやらないこと、決して。感情の領域にそれらは入り込んでくる。われわれは、もっと透明な、自然界、さらにはその背景にある自然界の秩序、生命の秩序の領域で施術をします。そこには、それらは入ってはこられない。しかし、それらを攻撃するのではなく、それらを排除するのではなく、それらが元々いた光へとただ道を開いておく。それらが、光に帰っていくかどうかはそれらの判断すること、我々は光への道を開いて待っておく。あとはそれらが決めた時、光へと帰っていくという。だいたい2〜3回施術すると大抵は帰っていくらしい。

  • エッセンス

水と光、振動数、波長。それらが、発している、聖地。われわれは、それを摂る時、こうなれ、という限定した摂り方をしません。その光を、水を尊重し、その光に、水に、フィールドに触れる、振動数に触れる。いや、振動数以上のなにか、に触れる。そして、それが、体の水に、いや、水以前の存在としての、もっと精妙な波長に触れる。ただ、触れる。意図はない。

 

それに触れさせていただけたら、というボトルを選んでもらえたらいいんでないかしら?