日本
※エッセンスの中には聖地のフィールドのエネルギーを転写したものもあります。それらは、非売品です。出会いの中で、必要だと思われた方に無料でお渡しすることはありますが、商品として販売することはありません。
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※必要だと導かれた(直感的に)場合に無料でお渡しさせていただきます。(寄付はありがたくお受けさせていただきたいと思います。次のエッセンスづくりのための移動費や宿泊費、材料費などの一部にあて察せていただきます。)
※「ディーエッセンス」としてのセッションでは、そのボトルとご縁があるときには選んでいただけます。セッションでは、頭や気持ちなどの”あなたの希望”によって選ぶことはできません。それも導き(直感的)に従いますので、何が選ばれるかはコントロールできません。エゴではなくもっと深いところにある透明なあなたのハートの静けさから選んでいただけます。
高野山、天河大辨財天社への旅 2024.10月
ひとつ目のエッセンス「弥山」は”外側はすごく優しい。けど、内側はすごい強い”、、弥山神社、天河弁財天の本質のある側面はそんな気がします。
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弥山は近畿で二番目の高さの山、その頂上には天河弁財天社の奥宮である弥山神社があります。弥山から流れる源流からお水をいただきエッセンっすを作りました。この山はなかなか来られない。来られない方のために、このフィールドのエネルギーを分けられたなら、、。許可はいただけたと思います。ただし、これは誰にでも渡してよいものではないように思いますので、そのご縁と準備ができている方にのみお渡しすることになるかと思います。
二つ目のエッセンス「火と水、復活、弥山」は二つの対照のぶつかる膨大なエネルギーが発するところから”復活”というイメージを作るときにありました。役行者と天河弁財天。対極と爆発的エネルギー、誕生。新生。という感じでしょうか。
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早朝、5時半に出かけ、川に落ちザブンと裾まで濡れる。両足、水タプタプ。知人と3人でタクシーで天河弁財天へ。朝拝が終わり、駐車場付近でおっちゃんに尋ねられる。奥宮はどこですか?弥山の頂上、結構な登山らしいですよ。僕は2回あきらめましてん。(1回目は、いけたと思うけど、会う人会う人に止められる。2回目は雨予報もあり、おみくじ引いてやめといた。)一緒にいきません?と、僕だけ知人たちとは別れて山に。
いってきまーす、と行者還りトンネル西口へ。岡山のおっちゃんの車、30分てgoogle map (歩きは行き4時間半、帰り3時間40分)体感はだいぶ遠いな、
地元の神社の祝詞と天河弁財天の祝詞は違うらしく納得いかんらしい。と、話しながらドライブ、お仕事がたまたま一週間空きになったと、天河へ。くる時昨日youtubeで弥山神社見て行ってみようという感じらしい、旅の本当の目的地は玉置神社、そして玉置龍神水を持ち帰ること、車には2リットルのポリタンクが五つ、自分ひとりだけではなくみんなに分けたいんだとか。
そしてクルマはトコトコと進む。朝、洞川温泉から天河弁財天に来るまでのタクシーの話をさらり。タクシーのおっちゃんい曰く明日は大雨(警報級)だから、明日は玉置神社は止めにした、今日行くことにした。(明日までは天川に村唯一のタクシーは天川にいない。)というような。
明日行くつもりやったのだけど、今日玉置神社に行こう。それが最大のモクテキなので、そっちが大事。今日は弥山の登山口見るだけで帰りましょう、と。👀
のんびりタバコ休憩しながら。弥山に行くにはできるだけ早く出発しないと。初めの出発前の感じからちょっと山は危ないかな?というのは感じてたので、ふーむ、こうなったか。
もう10時。
遅くとも7時、8時くらいには登っておきたいところ。(1回目、2回目に行こうと思ったときの会う村人たちの言葉から、かなりキツめの山とのこと。大峯山よりゼンゼンしんどいよ、と。大峯山はギリギリ以上にしんどかったから、ヤバめ。)
今回は全く行く気なかったけど、の3回目の天河。ここまできて、帰られへんし。行きたいと思って来たところやし、なかなかここまで車のない人にとっては来られないし。役割があるふうな感じに知人に言われたし(今となってはしらんけど。)それもあるし、行く。
帰りは?と聞かれ、タクシーとかあるしなんとかすると伝える。(朝のタクシーのおっちゃん情報では、明日まで天川唯一のタクシーはツアーでお出掛け中。タクシーはこの日はムリ。)
荷物ぜんぶ下ろして、おっちゃんは去って行く〜。
登山口の駐車場にはクルマがたくさん、どなたかに乗せてもらえるかも〜❤️。必要なものだけ持って大きな荷物は木のそばに置いて行く。出発。日が暮れる前に!日が暮れたら山は終わり。ちなみに、電波入らなくてもGPSはとれるから、YAMAPというアプリで地図を予めダウンロードしておく。迷うリスクはだいぶ減る。
弥山は思ったよりゼンゼンらく。大峯山よりラクだったな。頂上に着いたのはたしか12:45くらい。頂上付近で2時間ほど時間を使い、下山は14:45くらい。急がねばー。もう周りには誰もいない。帰りにもしかしたらの、駐車場の車たちもいなくなっちゃう。
山に入ると、ひとはだいたいみなオープンになる、挨拶するし、誰もいない山で人に会うとちょっと嬉しいものです。しかし、まれに閉じた人がいて、今回はガイドのお兄ちゃんとおばちゃんたち5.6人、仲間内にしか興味なく山で会うひとに関心ない。団体さんやからかな、都会の感じ。歩くの遅いわたしなのに、この団体さんとあと一人男性を追い越し下山!急げー!
登山口の駐車場に着くと、車は二台だけ。あの団体さんともう一人の男性の車だろう。そのうち団体さんが到着。とくに挨拶することもなし。
日が暮れが近い、荷物をまとめて歩く!うっすらと、大丈夫?と後から来た車に乗っけてくれる期待を持ちつつ。
ブーン🚗
団体さん、去って行った。
1時間半〜2時間歩いた頃、日が暮れてきた。やばいかなー、クマ注意⚠️の表示もないし、もうアスファルトの道やし、ま、なんとかなるか。宿をとってないが、電波が入らない。。山頂は少し電波が入ってたからそこで予約しとくんやった。(山頂からひとつ電話したんだけどお休み中だった。)下山の予定時刻はハッキリしないし、天川川合に宿を取るよりできたら天河弁財天付近にとって温泉いきたいしー、などちょっと考えるの先延ばしにしてました。
実際は現実はちょっとヤバめやな、ゼーンゼン進まない!5.6時間かかるんちゃうか?川合に着くのも夜10時くらいになっちゃいそう。欲張らずに現実的な川合で宿取っとくんやったー。谷沿いに道があるので電波は入る気配なし。
てくてくてく、急げー。てくてくてくてく。
すると、後方から一台のクルマがー!たぶん、山で追い越したお兄さんだろう。なんか、うっすら乗せてくれへんかなー?と思ってたのも恥ずかしく、そのまま素通り、むしろ見つからないように、くらいな。
後ろでちょっとスピード緩めたくるま、スーと前にいっちゃった。と、止まって窓が開いた。乗って来ます?えー、いいんですか〜❤️
と、乗せていただきました。日はとっぷり暮れ真っ暗。このあたりは当たり前だけど、きっとクマさんいるよー。川があるから魚取りに。危ないよー。なんとかなるではヤバイよー。僕もだけど。足悪くして、治ったと思ったら登山中に痛くなって、なんとかなるとおもったらならんかったわー。と、追い抜いてから、オイラに抜かれるなんてよっぽどやからもしかして?というのはよぎったのだけど。
滋賀から来た車のお兄さん。山で二度ほどすれ違いましたよね、荷物でっかくなってるけどあの人だと思いまして。ズボンが特徴的ですのでわかりました。よかったー、このズボンのおかげなんですね!ユザワヤで布買って三鷹のおばちゃんに型紙もらって作ったやつなんですよー。(えいこ先生ありがとう。)
滋賀からきたお兄さん、弥山は初めて、天河弁財天も知らなかった。奥の宮ですよー。
くねくね、まっくら、だれーもいない、山道が続く。車でもすごい遠い。流石にヤバかったね。無計画はあかんよ君たち😑(コレを読んでるひと)。
滋賀まで帰るから、その途中のどこかまで乗せてくれる、と。川合で下ろしてもらう。ありがとうございました!🙇名前も聞かない滋賀のお兄さん、ありがとう。
電波が入る。
いくつか調べて空きを、、満室です、と。これは仮に空いてても満室だと言われる感じやな。川合から天河弁財天まで荷物背負って再び歩く。一時間ほど、今なら、ギリギリ温泉に入れるー❤️
宿はなし。
天河弁財天の本読んでたからか、誰もいない神社、そこで瞑想するような時間が過ごせたらこんな贅沢なことはない、と、明日予報の雨も凌げるし、居させてもらえるだけ居よう。これまでの夜とか祭事の感じから、たぶん大丈夫。
神社なので寝たり横になることは流石に出来ないと思って、座ってひたすら夜明けを待つ。夜が深まって行くと、夏ほどではないが蚊がでてきた。その度、一階のベンチと交互に移動しながら。
瞑想?それは初めのうちは贅沢な時間、2.3時間くらいはあったかな。そのうち、蚊が出てきたり、睡魔によりスティルネス(静けさ)のない夢に入りかけの脈絡のない夢の入り口、映像、想い、わけわからん夢の状態。目を開いていても、それが幻影にすり替わって行く、気付かぬうちに、幻影にはいっている。その繰り返し。幻覚を見ているんじゃないか、という時間。夜が明けるまで。たぶん、本当にもしかしたらいろんな存在がやって来ていたのかもしれない。悪いものではないが、上位の高次の次元の存在ではない、わちゃわちゃしたのがたくさん?入れ替わり立ち替わり。
夜の時間はそのものたちの(参拝の?それとも、遊び場てきな?)場所なのかもしれない、お邪魔しました。
なかなか朝は来ない、まだこない。まだ来ない。30分毎、15分毎、時計を見る。
**
朝は来ない、やっと白んできたと思うのだけど、なかなか明けない。明るくなってきたな、そろそろ帰る支度をしないと、と思うと一気に時間が経ってゆっくりお参りする時間もないほど。朝の時間は矢のようにすぎていく。(いっつも遅刻するのは、僕のせいじゃなく時間のせいだったのだ。🙂)
キゼツしそうな眠さのなか、バスがやってきた。バスで15分ほど寝たらスッキリ。(前日早朝から山登ったりなんだかんだの1日でしたが、ニンゲン丈夫にできてるもんやね。)
そして勇者は次の運命に向かって旅立ったのであった。ちゃんちゃん。
旅のエピソード(山頂の二時間編)
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山頂を目指し先を急いでいた、まだまだ、、唐突に拓けた。ベンチがある。弥山小屋です。人が何人かいる、4〜5人の団体さん、個人の方数人、公衆トイレなんかある。山小屋、、小屋ちゃうやん、2階建?アパートみたいにでかい。
弥山神社は?先に進む、すぐに神社に着く。こんなに近くに山小屋が、人の気配があるところに、天河弁財天の奥の宮、役行者により弁財天が勧請された場所(?)がある。もっと人から離れたひっそりした場所にしておいて欲しかったけど。、、個人的な感想はそっとしておいて欲しいな、というのが正直なところ。
小さな敷地、鳥居に向かう。その前で、圧のようなもの、空気を感じる。圧といっても圧迫の圧ではなく空気の質。早朝に行った洞川温泉の、一番左の洞窟前はすごかった、すこし似たでも全然違う空気感。天河弁財天社のもっと濃い感じかな、とその時は思った。
入ろうとすると、人が1人来た、さっきまで静かだったのに、少し待とうか。人がいても関係なくその質はあるけれど、今回は待とう。
すると、ガイドさんに連れられた4〜5人のおばちゃん集団が。ざわざわになる。
山頂に着いたのがだいたい12:45くらい。登山口から出発したのが10:00。今13:00。急がないと日が暮れる。帰りの車がどっかいっちゃったので、帰りは、誰かを探して乗せてもらうか、それとも、徒歩で3〜4時間歩くか。急がないと!
ここには、役割というか使命というかあるように言うてたのが印象に強く残っていて、でそれをせんとあかんと思い込んでいたので、焦っていた。めちゃ。それは本当なんだろうと思うんだけど、ひとの、たとえ上と繋がっていたとしても、ひとの感覚はその人のもので僕のじゃないので、自分の感覚で進もう。と、今は思う。(でも、たぶん、誰に何も言われなくても、同じように使命を果たそうとして、同じように焦っていたと思う。)
ここには、天河弁財天から御神水を持ってきた。これを使って、エッセンスを作れたら作ろうと思って来ていて、神社の敷地で作るのは違うのかもしれないけれど、神社の空気感をこられないひとにあげれるようなフィールドのエッセンスをつくれたら。どこかその場所を見つけられたらと、でも、このお水を使うより、本当は、弥山神社の御神水である湧き水でつくれたらな〜。
ガイドさんに、聞いてみる。この辺り詳しいですか?はい、けっこう詳しいと思います。このあたりに弥山神社の御神水である湧き水、川はないですか?御神水?ないですねえ。このあたり一帯に水はないですよ。
この頂上付近には携帯の電波が1本入る。ネットで、御神水を調べてみるが、出てこない。ネット上にはなさそう。唯一、天河弁財天のホームページに、”八経ヶ岳と弥山の谷間にある源泉から御神水を汲んで”とある。八経ヶ岳と弥山の間の谷、いってみよう。あらかじめダウンロードしていた地図によると、とくに水はない、川も載ってない。google
mapも同様、川は載ってない。
弥山小屋付近でどっちに行こうか調べてると、休憩している人が声かけてくれた。八経ヶ岳はあっち。何度か来たことありそう。聞いてみる。水?川?このあたりにはないよ。
八経ヶ岳に向かう。八経ヶ岳には埋蔵経典があるのだとかという伝説をたしか大峯山にいったときに読んだ気がする。いつか行ってみたいと思っていた場所。でも今回は時間がないので、谷まで。途中すれ違った登山者のおねえさんに聞いてみる。八経ヶ岳までどれくらいですか?20分くらい。近いんですね!ガーっと下ってがーっと上る感じですね。川あります?ないですね。
川、水はない、てみんな言わはる。歩いていくと、すぐに、、水の音がするような?右手に崩落地がある。がっとえぐれて広範囲で土砂の跡、緑がない。
うーん、水の音だ。
道はないけど、緑のこんもりした苔がずーっとしばらく続いている、歩くに問題ない。歩く。下っていく。崩落地は急すぎて歩けない。八経ヶ岳側からさらに下っていく。川が流れてる。
湧き水?
何ヶ所からか水が出ていて、川になってる。右手にはまだ緑の中、水が湧いてる。左手は、崩落地。その中から水が出てきてる。2、3ヶ所?そんなに清浄な場といのでもない。やっぱり崩落地だから荒れた印象。
ちょっと飲んでみる、あんまりおいしくない。(その後お腹壊してませんが、山頂付近には山小屋があるので、人の影響はもしかしたらあるかもしれません。)
pale blue
dot.という水のドキュメンタリー映画、天河神社の方が白装束でお水を汲みにいくシーン、バン!と遅れて入ってきた女性が暗闇の中椅子にぶつかって、はっ!となって、そのシーンを見逃す。緑の地面を、岩場っぽいところを、ヨイショと下っていき、水が流れているのを、ちっちゃな滝だったような印象、汲んでいる。そんなイメージ。このあたりには、全然ない。さらにくだっていくと、なんと人工的な施設があるようだ。金網っぽいのに囲まれた白っぽい、コンクリートっぽい感じ、タンクとかあるのかな?木々に隠れてよく見えない。あそこまで降りていって確かめるのもたいへんだし、もう時間もない。下ってもなさそうだし、源流となるのなら、上の方だ。崩落地を登っていく。土と石と倒木。弥山側の主な湧き出てるところは2箇所かな。どちらを遡っていっても、さらに上には湧いてなさそう。とても登りきれない急峻な登り、先にはいけない、登山道にまでいってしまうだろう。この2箇所のうちで選ぼうか。結局、御神水の採取地はわからない。ネットで見てもわからなかったし、もしかしたら秘密にされてるのかもしれないし、秘密にしといたほうがいいとも思う。左の方は崩落が大きい、ちょっと緑の残ってる右側へ。
御神水というイメージではないけれど、ここ。ちょっと飲んでみる。おいしいな。
120mlほどの小瓶、ガラスジャーで採ろうと思うが、うまく入らない。ちょっと石を取り除いて入れやすくしよう。取り除く、ばーっと、流れで崩れてしばらくして落ち着く。採りにくい、この石が取れれば入れやすい、また崩れる。都合良くはいきません。人間は手出さないほうがいいとはいうけれど、流れは人間にはコントロールできません。できるだけ源泉の水をガラスジャーの蓋で汲んで入れる、何度か繰り返し、4割ほど入った。これでいいか。うーん、帰るの大変。左の土手に登る。さらに上へ!いけません。杉の若木が膝下〜太腿くらいまでの高さで密集していて先に進めない。元きたところへは急峻すぎて下りれん。逆の左側、弥山側に下る。すると、もう一方の崩落地の中の源泉がある。ここでもいただいとくか。もうひとつのガラス瓶に、似た手順で入れる。もうちょっと入れやすく、、石をどける、、入らん、の繰り返しで、蓋でちょっとずつ入れる。ガラス瓶に1割ほど。帰るか。
ここまで助けてくれた杖を持つ。あれっ!?
違う。さっきまでの杖じゃない。違う木になってる。ちょっと短くて、これまでの杖ほどの強度はなさそう。杖がない。登山口の入り口で拾ってきた、多分誰かが使って置いておいてくれた、枯れ木の杖がない。ちょっとだけ付いてた苔でチンキ作ってみようかと思っていた杖、登山口に返そうと思っていた杖。杖がないと歩くの大変。あの杖はどこ?探す。さっきまで使ってここまできた杖。ない。ない。なーい。探してもない。杖が、入れ替わった。もう探してる時間もないし、しゃーない。これは「勇者の杖」やね、授けられたんや。勇者やから。うしし。(帰り道、下山途中、滑ってざざざーっと。(滑落って、ほんまに危ないんやね。ちょっとした坂、ちょっと滑っただけでもコントロール効きません。結構な谷ならあぶないっすよ。)「勇者の杖」折れました。😑)
もう横着せずに、ショートカットはせずに、歩きやすいルートで帰る。急げ。途中、ここでなら作れそう。という場所が2箇所ほどある。が、弥山神社、というフィールドではないし、なにより「作らなければ」という、そして時間がない!という焦りで自分が鎮まらない。やっぱり作るのはやめておこう、つくれそうなんだけど。弥山小屋付近では団体さんがワイワイしてはる。弥山神社へ。たぶん、弥山小屋の発電機の音、エンジン音が聞こえてる。おばちゃんたちのざわめきも。やがて、おばちゃんたちが去っていった。エンジン音はする。。
まだ焦りがある。自分が静かにならない。どこでつくろうか?どこかでつくれるかな?2つのお水の瓶と、1つのウオッカの入った瓶をもって、、境内に入ってみよう。鳥居の前で、なんか携帯は持ち込まないほうがいい気がするな、と、おいていく。鳥居をくぐる。すっと、静かになる。自分の焦りで収まらないざわつき、ずーっと付き纏っていた焦りとざわめきが、鳥居をくぐったとたんに、静かになる。ここで、つくれる。つくるとしたら?弥山神社。あまりに近いと、人間たちの想いがありそうなので、少し離れた石畳のところで、つくってみた。ちょっと違う作り方で。そして、いちおう、もうひとつもある。作れる場所は?すこしはなれた左手の草の上、ふと、神社の敷地の外には、左手の一帯、まだ若木が、かなり前に一帯が枯れたのか(燃えたのか?というような印象)2mほどの高さで残った白っぽい枯れ木が幹だけ残して複数が立っている。枯れた木々と若い木々の対照。そして、敷地外側にある左手の役行者の祠と正面右手には弥山神社。火と水、復活、というような印象。(しらんけど。)そこでひとつ。
できたかどうかしらんけど、いちおう、つくってみました。
作り終わった時、エンジン音が消えていた、シーンと静かになっていることに気がつきました。もう14:45。かなりやばい。急げ〜!!!そして「勇者の杖」を持って下山したのでした。(滑って、折れたけど。😑)ちゃんちゃん。
**
後日、カフェのおねいさんに見てもらったところ、二つのエッセンスはちゃんとできてたようです。よかった。🙂
弥山神社、そこは、限られた準備のできた?ご縁のつながったひと、だれにでも盲目的に渡すことはできない、人を選ぶというイメージがあります。(天河弁財天が行こうと思っても行けない、呼ばれないといけない場所、という言われ方をよくするのでそのイメージかもしれませんが。)ひとつ目のエッセンスは、誰でもには渡せない、人を選ぶエッセンスのような気がしました。
天河大辨財天社への旅 2024.9月
天河弁財天社の朝拝に参加した後、朝の空気のなか、不思議な場所に出会い風と石の前にしばらく時を過ごしました。水の記憶。伝えること、メッセージ(?)を感じました。
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湧き水を汲み、橋を渡った少し山を登ると拓けたところに出る。ただの人工的な更地、広い敷地、遠くにユンボが見える。敷地を囲うように、赤い岩がたくさん。結界がはられていて、片隅には大きな岩が。木の碑がいっぽん。なに書いてあるかよくわからない。朝来たその場所に座る。もうお昼で太陽が強く、暑い。朝の雰囲気の静かな涼しさはもうないけれど、まだそこにはあの記憶がそのままある。湧き水をいれた、ガラス瓶を蓋を開けてそこに置く。しばらくして、できた。ウォッカのミッドラインを通して浄化して、お水を半分に割る。エッセンスができた。
風の石(名称仮)
まだ朝、東京は酷暑だけれどこちらは、少し肌寒いくらい。天河大辨財天社の朝拝に出て、そのあとに、禊殿に行こうと、行ってみると人がいて、真ん中に立っていて自分の時間を過ごしている模様。邪魔しないように、、待つ。。そういえば、昨日お参りに来た時に橋の向こうから人が歩いてきていた。あの山の方に何かあるのかしら??歩いて行ってみると、拓けた場所に岩がたくさん。隅の方には大きな岩が祀られている。朝拝のあとだから、たぶん、8時くらい?まだ太陽は山の向こう、そろそろ陽が差し始めている。風が気持ちがいい、この空間はすごく涼やかでとても気持ちがいい。柔らかな不思議な風が、つねに少し吹いている。結界の張られた岩の前に座る。なぜ、今回天川に来たのか?今回の目的の山は、登らないことに決めた。そもそも、何しに来たのか?何かを求めている?なんのために、なにしてる?日々からのつながり、、。わたしはなんのために何をするのか?この手の中にある、わたしの中にある、能力、役割。この普通の人が知覚できない、セッションの場ではわかる見える流れと導き、自分の力を使わない、能力を、意図を一切使うことのない、施術。それができる、なのに、どのようにこの世界に表すと言うのか??岩の前に座り、もやもやのあたま。すると、やまの向こうからちょうど木の柱の上から太陽が差してきた。風がそよぐ。ふと、”伝えること”、”与えること”、というクリアな意識にシフトした。伝える、与える。クリア。。少し時間が経つと忘れてしまうような透明な感覚。なんだったかな、それは、”体の水が記憶する”ということ、もっというと、バイオエナジェティック・オステオパシーでいうところの、この体、肉体、エーテル体のさらにその外側に広がるフィールド、フルーイドボディ。液の体。そこに、記憶される。(いや、正確にはそこではないか。。)
何かをするのではない。何かを”伝えよう”とするのではない。与え”よう”とするのではない。なにもない。ただ、自然と起こること。自然と、この体の水に記憶された、その聖なるフィールドの振動数が、何も意図しない時に透明に、伝わる。そのように、かんながらたまちはえませ、そのように。水の流れるままに、そのように。
わたしは何もしない、わたしには何もできない。何もしない。何もわたしを混ぜない。一切、想いや気持ちを混ぜない、何もないこと。透明であること。わたしのエネルギーを少しも一滴も混ぜないこと。混ぜない、純粋な、その場にあるそのものの、聖なるエネルギーを。そのまま、そして、それを伝えようともしない、伝えようと意図しない。自然と、その聖なるエネルギーが、その働きの純粋な働きのままに、わたしにはわからないところで、いっさいわからないように、振動していく。ただ、それだけ。わたしは何者でもない、なにもない、だれでもないこと。
一般にいう”エネルギー”というワードには誤解がある。一般にいうエネルギーというのは、エネルギーを受け取って、それを与える、というような文脈で使われるそれは、なにかザワザワ・ギラギラが混ざっている、眩しく目を射るようなザラザラしたもの、そのエネルギーは、だいぶ表層の振動数であり、本質の透明に何かが加えられて混ざっている。それは、不純物であり本来ないもの、それは、意図。ひとの、意図、がはいっている。何かをしようと、与えようと、助けよう、と。意図のない、ただのフィールドの静けさ。そのただの静けさに、満ちている、完全性、なにも失われず何も欠けていないもの、それが聖なるもの、それをエネルギーと言うのなら、一般に言うエネルギーは人が使う、人が利用する、ひとが得する、人の我のために利用する、何かしてあげたい、なにかなにかなにか、、意図が混ざっている。それは、方向性を限定し、透明性を不純物で混ぜており、流れを妨げ、どこかで矛盾が生じる。取り引きになっている。意図を離れ、我を離れ、何もないところに行く。そこは、満ちている、誰でもなんでもないところ。静けさ。
聖なるものは聖なるもののままに、そのままに。なにも意図を混ぜないこと。
このエッセンスは、バイオエナジェティック・オステオパシーは、意図を持たない。ただ聖なるものに触れ、何もしようとせず、何もせず、自然と何かが(純粋なはじめからそこにあったものが、その方向性もその流れもそれ自体に備わる叡智の進むままに。水の流れるままに、そのように、、。)伝わる。伝え手は透明、わたしは”いない”。それは、何かを伝えようとして伝えるのではない、ただ聖なる静けさに、フィールドの静けさに触れるだけ。エッセンスを通して触れる。施術を通して触れる。同じことをしている。
聖なる振動数に、触れる。
ただそれだけ。
何かを起こそうとはしない、何かを治そうとはしない、何かを助けようともしない。ただ、聖なるフィールドに触れる、自然と起こることが起こる。自分が変わる。浄化がおこる。何かが変わる。 それは、変えられたり、別のものになったりするのではない、自分の本来の、つまり、エゴで隠れている本質が現れてくる、はじめにそこにあったもの。
そのように、フィールドから教えられた。
バイオエナジェティック・オステオパシーとはそういうもの。同じ方法で作ったのがエッセンス。
今回の天川弁財天と大峯山への旅では、このエッセンスのみ、結局作られたのはこの一つのみでした。
※朝の空気のそのものではなく、お昼に作られたエッセンスですが、その朝の記憶はその空間にありました。本当の純粋そのものの空間は朝作るのが良いかもしれませんが、今回はこのタイミングで作られました。それは、水の記憶。水への記憶。われわれは、70%が水。分子でいうと我々の体の分子は99%は水分子でできているらしい。水の体を持っている。体に記憶されたもの。それは、わたしの体のフィールド、液の体に記憶されていると思います。そのように、ひとはフィールドに、液の体に、体の水に、記憶していく。それを、他者と分かち合う。出会い、意図のないところで、自然と、伝わっていく。Pale
Blue Dot.というドキュメンタリー映画があります。同じようなことを言っていたと思います。天河弁財天も出てきてましたよ。
この不思議な赤い岩の場所について、宮司さんに聞いてみたところ(わたしの記憶と理解が正しいかわかりませんが)ここは昔、タニグチ神社という跡地であったと伝わる場所でした。が、近年の土砂崩れで埋まったため、整地したところ、ごろごろと不思議な赤い岩がたくさん出てきた。これは?ということで、名誉宮司さんが大切な場所かもしれないと、あのように祀っているようです。(わたしの記憶が間違っていたらすみません。)この地に特に何か(神様)を祀っているということはないようですが、岩がたくさん並んでいて、いくつかは結界がはられ祀られています。
大峯山への旅 2024.8月
女人禁制の山、大峯山。修験道の山です。女人結界門から3〜4時間歩き山頂へ。大峯山寺というお寺があります。さらに、1時間半ほど歩き奥の院という場所へ。
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大峯山寺のさらに奥、、1時間ほど進む。人間の世界から獣の世界へ、、さらにもっと別の世界を進む。大きな岩がある、磐座のような、、その上に木が生えている。かつて何らかの場所だったのだろう。3つほど通り過ぎ、、さらに桁違いの大岩。まだ、着かない。あきらめて三度引き返す。いや、この形跡は修験道のなんらか。道は合っている。引き返し進む。人間の気配がない。さすがにもうないか。間違えたか。。引き返す。いや、まだこの先か、、もう一度進む。ずいぶん来た。引き返さないと、、もう獣の時間に入る頃に差し掛かるだろう。この先にはない、、唯一、分かれ道があったあの場所へ、確実にこちらと思ったのだが。引き返し、あの道をゆこう。はじめの分岐へ。引き返す。その道をゆく。・・これは、違う。人が通った形跡が、ない。倒木だらけ。もう引き返せない。進むしかない。たぶん、この道はもう一つの道に合流するハズ。そして、やがて元の道に合流した。一安心。となると、目的地はこの先に進む以外にない。山は3時を過ぎる頃姿を急に変える。人の時間は終わり、獣の時間になる。限界の時間は13時半。まだ、先は見えない。たどり着けるか?さらに進む、、桁違いの大岩。この辺り?少し斜面を登ってみようか?いや、何もない。少し進む、大岩の裏側へ、大きな木、ウロ。なんかヤバそうな、、スズメバチとかいないだろうな。。大岩を回り込む、、と!急に視界が拓ける。人の手の入った、清浄な地。しずか、清らか。とうとう目的地に辿り着いた。そこの赤い祠の前で作った。たぶん、役行者ゆかりの地。赤い祠の前で作る、と水とウォッカをほとんど使った。(赤い祠のエッセンスはお助け水を使った。)
すこし歩き、ここだったか!と、三角の石のところでここがエッセンスを作るべき場所だと気がつく。
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残りの水を全て使った。ウォッカは3分の1の割合となった。水はこの山の頂上で得る予定だったが、忘れてここまで来てしまった。山のまだ3分の1ほどのところにある、湧き水『お助け水』を新品の空きのペットボトルにいれ、そのまま持っていた。残り少ない、水。たまたま持っていた水。お助け水を使った。ここでお助け水は使い切る。
で、天気悪くなってきた。ゴロゴロ、どしゃ降り〜。雨宿り?けど、待ってると時間が人間の時間ではなくなるので、待たずに歩く。 ゴロゴロ〜。 そして、ゴロゴロのなかを歩いて帰る。 靴もズボンも思ったより濡れない、 (いうても、森の中だから、雨の直撃はそれほどでもない。)
だいぶんお寺に近くなった頃、下草の中歩いている、草が濡れてて、靴も靴下もズボンもびしょびしょ。雨宿りしててもどっちにしても濡れてたね。 雷はまだ過ぎない、雨は少し弱まる。 がさっ!! 鹿が逃げていく。(びっくりした〜!)熊でなくてよかった。熊よけの鈴、麓の荷物に置いてきてしまった。
お寺に着くと、3時前。奥の院からは45分くらいか。お寺出発から3時間弱。宿坊に戻り、雷が過ぎるのを待ち、(ブレーカー落としておくらしい)お風呂♡ ありがたい〜。 ご飯食べて、部屋に。 もう靴下も靴もズボンも白衣もずぶ濡れ。 どこもいく気しないしもう寝る。夕方6時くらい。
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翌朝、空は晴れてて だんだん赤くなってくる。日の出! 日の出を見たいと、外へ。 靴がびちゃびちゃや〜。だから靴下もどうせ濡れるしびちゃびちゃの履く。 白衣とズボンは思ったより乾いてる。 急げ〜。 山頂のお寺へ。 周りを木に囲まれてるからか、日の出の気配なし。 看板、お花畑。 そっちに少し登ると、そこが山頂らしく、 ひらけている。 花はなくて、笹みたいな低いやつばかり。 この先には行場の岩があるのか〜。 こちらにも日の出の気配なし。 戻る。 昨日宿のお兄さんに聞いたところによると、この奥には湧き水があるらしい。護摩焚くところの奥をずーっと進むと40分くらい。 。。こっち? でも、こっちは昨日の奥の院の方に行くから、、。 もしかして、あの奥の院のところには湧き水もあるのかも。 もう、そんなに時間を使うことも、移動する気持ちもない、湧き水は諦めるか。 ネット情報では、なにか目に良い湧き水が像の前にある、みたいなのを見た覚えがあって、それを聞いてみたんだけど。奥の院なのかな?流石にもうあそこまでは行けない。諦める。 お寺に戻り、その裏にも道があると言っていたな宿のお兄さん。 行ってみる。ん?右手に、像が。 そして、消えかけた看板には『目洗い行者尊』と読める。その下には、窪みがあって水が溜まってる。流れはなく、水たまり。これはさすがに、、。綺麗そでもない。 この水を湧き水と思って、当てにしてたけど、山を登る途中の『お助け水』汲んでおいてよかった。水は途中で(口つけずに)結構飲んでしまい、昨日のエッセンス作りで使い果たした。 ん!? なんだ、これは。よくみたら、柄杓と、、平べったいやつは網みたい。フィルターか。これで濾して使ってね、ということか。ということは、たぶん、この水たまりの水をいただくのが目洗いの水ということなのね。 。。 裏の道を、すこし登ってみる。岩の道。 雰囲気がいい感じ。まだ夜明けということもあるのか。 対面の山から、雲の間を縫って周りの木の間から日が差してきた。 日の出。 写真や動画ではぜんぜんうまく撮れないな、、。 少し手を合わせてみたりして。 上の雲に隠れた頃、帰る。岩場を歩いて、、。ふと、ここやん。 と、エッセンスを作ろう。水は、あの目洗いの水。 道具がないので、宿に戻り、、急いで戻る。 日の出から、少し時間が経ち、場もすこし変わっている。 ここや、と思ったところから移動していて、ここに。 岩ではなく土と草の上。 少し手で持って眼前に。陽が当たる。 できた気がした。 ここはいい。清浄な。 残りのウォッカはちょっと。エッセンスの水を、1:1になるように、、。じゃ!と、1:2くらいに。ま、いいか。 ちょっと欲張ったため、水があまる。持ち帰って、途中でお助け水を入れてた空きのペットボトルに。 役目も、目的も果たした。 そろそろ下山しよう。最後に、お寺にお参りに。
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今年は秘仏である蔵王大権現が公開されている。左手に。そして、右手には役行者。 最後に、一礼して、蔵王大権現の前の出入り口から去ろうとすると、、気持ちよくキリよく去れる感じではない。(お坊さんがこのタイミングでげって。ゲップした?もー。)下山の前にまだ、なんかやることあるのかしら? なんか宿に直接戻るのもなんやし、お花畑のほう行ってから帰ろう。 そういえば、この先には行場『岩』があるんやね、いってみるか。 切り立った崖の岩場、このでの出来事は、たぶん、個人的なものなのか。秘密にしておくものなのかもしれない。 『空白』 急いで引き返し、宿。その『水』をいれるため、10mlのスポイトを(目洗いの水をいれていた)空にして、持っていく。靴を履いているとちゃりーん。(このときだったか、それとも目洗いの水でエッセンスを作りに戻る時だった?)お金落とした?五円玉??見当たらない。行くか。 でも、そのときには、もう終わり。完了している。という感じがしていて、引き返すことはない、と思ったんだけど、引き返してその『水』を10ml持ち帰る。でも、もう時間が過ぎていて、場が変わっている。水も変わっているだろう。10mlだけ持ち帰り。帰る。 首から、ダライ・ラマのブレッシングした紐をぶら下げていて、それをポケットに入れたり、首から下げたり。それに、チベット22年くらい前のチベットで買った、キーホルダーみたいなヴァジュラ、五鈷杵も山に登る時、あ、首から下げたりもできるな、とその紐にくっつけてた。 五鈷杵がない! どこかで落とした。この山のどこかに、おいてくるためにチベットからきたのかしら?宿に帰って部屋を探してもない。 そんなこんなで、その『水』はないことにしたほうがいいのか。 そして、下山。 靴履いて、上履きを棚に戻す。何かを踏んだ。 五鈷杵! あのちゃりーんていう音はこの五鈷杵の音だったのか。 今思うと、ちゃりーんていうたのは、正確にいつだったのか?目洗いの水でエッセンスを作りに戻ろうとする時だったのか、それとも、空白の岩場に戻る時だったのか、どっちかわからない。 もう岩場にもどることはない、のサインだった?
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山の入り口から3分の1くらいのところに、『お助け水』という湧き水がある。登りのとき、この水すごー!と思ったので帰りに汲んで帰ろう。と、でも入れ物がない。目洗いの水のエッセンスの余りを入れていたペットボトル。 他に入れ物はない、、エッセンスを作るためのガラスボウルがひとつ、蓋はない。 ペットボトルにいれていた目洗いの水をガラスボウルへ移す。 空けたペットボトルをお助け水で満たし、ガラスボウルを手で持ってこぼさないように1時間ほど山道を下山。 まあまあ、こぼした。 麓のお食事とかお土産とかの建物で、市販のミネラルウォーターを買って空けそれに、移し入れた。 特に行はしなかったし、裏の行場と呼ばれるお寺の裏に続く行場には今回は行かなかった。けど、お水持ってこぼさないように下山したり、奥の院を彷徨ったり、自家製の行した感じ😑 そう、あの奥の院の道をさらにずーっといくと、熊野に通じるらしい。 下山の途中に亀の岩みたいな名前、の岩があってそれもどこかに通じてる(どこか忘れた)らしく、触ってみたらすごかった。 。。 というのが、旅の思い出。少し時間経ってるから臨場感はないけれど。 行く前と、だいぶ体変わった。キンニクツウ。 東京いるより、ウロウロ歩いていたい〜。
熊野三山への旅
熊野三山(熊野本宮大社、熊野那智大社、熊野速玉大社)の奥宮、玉置神社から車でけっこう行ったところ、公共交通機関のない場所。玉置龍神水の湧き水でそのフィールドのエネルギーを転写したエッセンス(ソースフィールド)です。バイオエナジェティックの仲間3人で、作りに行ってきました。太陽のエッセンス。
鞍馬寺
毎年5月の満月は、ウエサクというお祭りがヒマラヤで行われています。鞍馬山でも毎年5月の満月にウエサクのお祭りがあります。ずーっと以前は夜通し続けられ朝まで儀式をしていたようですが、現在では3時間ほどでしょうか。
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そのウエサクに参加すると、儀式の最後に御神水を分けていただけます。儀式の間、満月の光に当てられた御神水、、2023年は曇りでした。小さなコップにほんのちょっとずつ、参加者数百人??に分けられその場で飲んでもいいし、持ち帰っても良い。わたしはその場ではほんの2滴ほど飲み、あとは小さな瓶を持っていたので持ち帰ってきました。
〜『すべておまかせ 信楽香仁』から抜粋〜
鞍馬山では五月の満月の日に「ウエサク祭」という行事を行っています。
一般的に満月の日には、サンゴの産卵や、卵から孵った幼生を海に帰すカニがいたり、地震や火山活動にも関係しているという説もあるそうで、良きにつけ悪しきにつけ、エネルギーが高くなると言われています。中でも、五月の満月が最もパワーが大きいそうです。
その五月の満月の日に、鞍馬寺では室町時代からお祭りを行っていました。当時は、お水を入れた器に満月の光を映して、みんなでそのお水をいただくという祭儀で、密教的な色合いが濃く、僧侶のみで行われていました。
ところが、お釈迦様の誕生と、お悟りを開かれたときと、お涅槃に入られたヴァイシャーカ(五月)の第一満月の夜に、東南アジアの仏教諸国ではお祭りを行っていること、ヒマラヤでは仏教とキリスト教など、宗教の垣根を超えてみんなでお祈りをしていることを知り、昭和二十九年からは鞍馬寺も「ウエサク祭」として一般に公開することを決めたのです。
一般的にお寺や神社にお参りするときには、たいてい自分の願いを叶えるためや、ご先祖さまの供養を目的にしていることがほとんどでしょう。しかし、ウエサク祭は一人ひとり蝋燭に火を灯し、ご本尊に捧げてもらうことで、「生かされていること」や「めぐるいのち」に気づいていただきたいという願いが込められています。また、すべてのものを生かしている自然の働きが、ご自分の中にも宿っているということにも気づいていただけたら、と願っているのです。
人ひとりの中にめぐるいのちがあるということ。それに気づくと、自然と生き方が変わって来ます。
今までよりも周りの人を大事にできるようになることもあるでしょう。他者だけとは限りません。自然やもの、あるいは自分にだって優しくなれるのではないでしょうか。
夜中2時半ごろまで、いました。山の上なので風が冷たくめちゃ寒い〜!
鞍馬山の御神木は、どうやら何十年か前の台風で倒れたようです。たぶん、その御神木で作られた神杉守というお守りを本堂で買うことができます。一年ごとに返す必要はない永代のお守りとのことです。たぶん、すごい。神杉守の他に、大鋸屑のような感じで御神木を売ってます。焚いて浄化に使ってもいいし、箪笥の隅に入れておいてもいいし、とのことでした。その御神木でチンキを作ってみました。
埼玉県、長野県
埼玉県の弓立山で仲間達4人で作りました。ヤマザクラのフラワーエッセンスです。弓立山は水晶を多く含む岩でできた山、岩の上で作りました。儀式のように、、作ってる最中は誰も通りかかりません。3〜4時間ほど、太陽光に当てて近くで汲んだ湧き水にお花のエネルギーを転写しました。