施術者に見えている世界

施術中に施術者は何を見ているのか?


施術の風景

施術の風景を撮っていただく機会がありました。どんな施術なのかのご参考にどうぞ。

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バイオエナジェティック・オステオパシーのアプローチです。※ロルフィングでも使われている手法です。軽く触れるだけ、静かなセッションです。

※普段の施術の際は、クライアントさまには薄いブランケットなどを掛けて施術しています。施術者は息がかからないようにマスクもしています。

施術がはじまります。静かに、受け手からの情報を待ちます。。施術者から何かを”やりに行こう”とはしません。何をどう施術したら良いのか、必要なことは受け手の体の知性が全て知っています。施術者はただ情報がやってくるのを待つ、、体からの”指示”を待つ。

静かになって、体からの指示をまつ。

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施術者が”意図”を持って体を変えたら?、、本来の姿とは違う、、ひとが作り出した形に変形させてしまう。、、体はそうされたくはない。人間の意図はたとえその場は良いように見えても矛盾を生みます。体が属しているのは施術者ではなく自然界の秩序。しずかに耳を澄ますように、、その秩序が現れてくるのを待つ。


(人間が自然界に何をしてきたのか見たらわかりますよね。。やりたいようにやった結果、異常気象、、山は大地は海は川はいきものは疲弊してしまった。正しい道は、自然界が知っている。自然の背景にある秩序をみつけるために、観察し、、待つ。そして、その秩序にしたがうと、回復の道が開ける。)

施術者は体を、、いくつかの段階、、密度の違いのようなものを、、知覚しています。日常のリズムの早い物質的な領域から、、だんだん静かで、、ゆっくりな、、さらには透明で、、静かな領域へ。移行していきます。

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そして、体の全体の様子が知らされ、、扱うべき場所に導かれます。全体的に、体がより物質的、より液体的、、気体的な、、いくつかの体がちゃんと中心軸にそろっているか?

ズレたり、乾燥したり、澱んだりしていたりすることがあるか?引っ掛かりや、固着しているところがあるのか、、いろいろな情報が、、施術者に見せられます。

 

施術に必要な情報が来ました。。バランス点をみつけ、、変容が始まります。そして、解消が起こり少しずつ変化していくバランス点を保持しつづけていく。そして必要なさらなる情報がやってくるのにも知覚を開いておきます。

このとき、右側の空間にバランス点を見つけ、少しずつ解放と共に変わっていくバランスを保持し続けています。

とても繊細ですが、リアルなバランスの世界です。

 

 ※施術者はクライアントのことがなんでもわかるわけでもありませんし、相手の内側のことがわかってしまうわけでもないです。わかることは今このときに体が必要としている施術についての、情報。

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必要とされる情報が指し示される、、受け手の体の知性によって導かれた「施術の手がかり」が見せられる、、つまり、(施術者は)ただ指示を待つことができるだけです。

その指示される情報、つまりやるべきことに必要なことしかわかりません。(受け手の体に指示され、施術者は使われる)

骨盤に両端から触れることはよくあります。軽く触れるだけですが、、骨盤内部から始まる調整が、、動き、熱を放射し、、徐々にあるべき姿に変容していくのを待っています。

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骨盤の水平軸には、、静かな流れがあります。静けさ、、それに両手が合わさっていき、、シンクロしていく。誰もが持っている内側にある健全の光に施術者の手が合わさっていきます。そして、骨盤の調整が始まり、、やがて全体が静かに満ちていきます。

決して施術者の”意図”を使って、骨盤の動きを変えたり、正しい姿に変形させようとはしません。仮にそこに歪みがあったとしても、今の身体には必要があってそうなっているのです。

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その歪みが去っていける時期がくれば、施術者にはその情報が与えられ、それについて施術をさせられることになります。
知識や感情、欲求や要求に従うのではなく、なんでも知っている体の叡智、”ハート”の静けさ、に従うのが施術者の道です。

体の叡智に従い、その回復の道筋に沿う。何も邪魔しない手、透明な手が必要です。介入するのではなく、待つ、、変えるのではなく、体の持つ自己治癒力のサインである”静けさ”に耳を傾けている手があります。

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※歪みは体の智性によってそこに配置され、全体を支えています。脈絡なくただ知識や人間の善悪で必要な歪みを取り去ってしまうと、矛盾が出たり、元に戻ってしまったりします。

施術者の手は、相手の体を作り替えようとはしません。こちらの意図により動かすのではなく、、そこには、手があり、触れているのは相手の体に流れる”静けさ”です。その静けさは、、内側から、、放射してくるように広がっていきます。

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施術者の手はそれを邪魔することなく通り抜けていく、、透明な手が施術者のあり方となります。
手が誰かを変えるのではなく、手は透明な静けさに触れていて、(生命の叡智である治癒力が働いているのを)知っている。

肩に触れる時も同様です。相手の内側には静かな流れ、生命の力があります。それに手はシンクロしていく、そして、体は光が広がっていくように満ちていきます。その過程で解消が起こり、、時には結び目が解けるように肉体の歪みが解けていくのに合わせてバランス点が変わっていきます。そのバランスに合わせて手は動かされます。そのバランス点の中心に静けさがあり、その光(繊細なバランス点)に繋がりをつけつづけています。

解消、、。熱が放射されたり(手が熱く感じられることはよくあります。)動きが出たり、感情が出て通り過ぎたり、、涙がでることもあったり、、時には笑いたくなったりもします。それらは歪みにより保持されていた外力のエネルギーが去り、体が本来の状態に帰っていく過程で起こる変容のプロセス。去っていくものは追いかけず、捕まえにいかず、、去っていくがままに去らせてあげましょう。それはもともと自分のものではなかった、、アイデンティティとして保持している歪み、大人はそれを手放さない、、幼児や赤ちゃんはすぐに手放すもの。熱が去り、感情が去り、、静けさに満ちていく。本来の姿が現れ始める。

混沌の中にも、必ず光があります。静けさ、、。美しさ。それを見つけるのが施術者の仕事。そこに癒す力があるから。

静かに待ち、、変容のプロセスが落ち着き、、静けさから、徐々に浮かび上がり、、リズムのある世界に帰ってきます。ゆーっくりとした呼吸のようなリズム。

頭は最も繊細な領域、決して施術者の意図は入れません。ただ光の存在をリスペクトして、外側でスペースを開けて待っている、、というか、、ここは特別な空間、、。何も言葉はない。

全体が整っているか、、。均質に、、満ちている。繊細な粒子に、、満ちている。薄い光を纏っているように。

クライアントさまは、”光って”いるか?

 

このような状態でセッションを終えること。この写真の夕日のように。

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生命力に溢れているか?引き続き、セッション後も体は治癒と変容のプロセスを続けていけるか?

「終わりましたよ〜。」

しばらくお話しすることもあります。

結構いろんな話しますね、そのときどき、タイミングにもよりますし、もちろん人にもよりますが、体が整ってくると、話す内容も徐々に変わっていきます。ロルフィングの10シリーズの場合では、前半と後半では話せることが変わります。前半では話が通じないことも、後半では自然に話がはじまります。

話すことはいろいろあるんです。ボディワークの道を歩んできて、その過程で自分も変容してきて、間違えたことも、知ったことも、体験したこと、全てに共通するような、真実も。文字では伝えられない、ものがあるんですね。

 

 

 

10シリーズも後半に入るとバイオエナジェティックの世界から見たこの世界の姿(何が疲れさせるのか、何が回復させるのか、、どう対処すれば良いのか、影響を受けないようにするには?人の感情にどう対処する?ご自身のあり方の選択、、ある時期に起こるご自身の内面のシフトについて、などなど、)をお話しすることになるかもしれません。それはもしかしたら、10シリーズ後のセッションになるかもしれません。そのとき、適切なタイミングで適切な話をすることになるでしょう。その段階に達したときに、話せることがある。まだわからない状態(体の変容のレベルによる)の時に、話すべきではないことを話すと、害をなす場合もあるようです。まだ知らない方が良いことも、あるのです。その段階に達しているか?それはこちらで判断しています。秘密は秘密のままにしておくことで、それが守られているというだけでなく、知らないことでわれわれ自身も守られている、、ということもあるのです。

セイタカアワダチソウ、やっかいものの雑草。実は、すごい効能、現代人に必要な、があります。お風呂に入れると、、肌に良い、アトピーとか。お茶にもできる。風邪に効く。植物には運命があるという。役に立ちたいと願っている。より高次の存在と関わり、成長したいと、奉仕したいと願っている。植物はエゴがなく、決してダークな方向には向かわない。光に向かって、成長していく。太陽と地上を繋げ、生き物に、人々に奉仕する。無機物から有機物を作り出せる唯一の存在。必要としている人のすぐそばにやってきているという。でも、人は気が付かない。バイオエナジェティックの講座の一環として、植物療法を学びました。植物のあり方は、施術者の在り方。

 

では、ご縁がありましたら、その辺で。