昨日の職務質問、あれはあかん。
職務質問、ちょいちょいされがちなんやけど、カバン開けられるのもいややけど、人前でとかもいややけどー、その場を去ればもう忘れる。が、昨日のはあかん。
ポケットの中身出して、ボディーチェックされて。財布の中身やカードまで見られて、、というのは精神と体にダメージ残る。やりすぎやで。
(多摩川にセイタカアワダチソウを取りに行った帰りだったんだけど、くっつき虫(草の種)がいーっぱいズボンにくっついてたの、ボディチェックされるんやったらそのままにしとけばよかったわ。)
これはなんやろ?と思って。介入、侵入、侵略、、あ、侵襲的というやつか。
物理的に、ボディワーカーやから用語でいうと、フルイドに残るね。液の体、感情や代謝を司る体に残る。
これをクリアにせなあかん。
元の本来の姿に戻るように。何かを変えたり追加したり、想いを入れたり、”助けよう”としたりでさらに自分ではないエネルギーを追加されると余計におかしくなるね、これは。元の姿に戻れるように、純粋な自分自身に。追加された、侵襲された、何かが入って来てしまったら、それを出さないと。
外からの侵入、これがトラウマやね。トラウマを見つめても、しょうがない。そこに入って来たエネルギーが外に帰っていくようなやり方が、必要。トラウマをみるのではない。問題をなんとかするのではない、真実の姿に再び帰るためには、余分な情報を外に返す。
扱うべきは”トラウマ”ではない。
では、どこに真実はあるのか?
自分の中心にあって、それは外につながっている、上と下。ソース(根源)と大地(地球)の”愛”。
感情ではない、純粋なエネルギーとしての”愛”、、なのに”愛”というと”愛情”になりがち。
ヴァンデルポストの一節を。『かまきりの讃歌』(あ、ヴァンデルポストの本探してたら江本勝さんの本が出て来た。)
体に、相手に、その存在の中心にあるものにリスペクトがあって、その施術ができるボディーワーカーを見つけると良いと思う。感情ではなく、個性やパーソナリティを相手にするのではなく、その存在の中心にあるもの。
その”液の体”を、クリアにできるワークがあるが、なんか、思ってんけど、アートにもその力があるのではないか?と。ボディーワークの世界だけではなく、たぶん、アートの世界も似ていて、感情に働きかけようとするアートと、根源に働きかける無私のアートがあるように思う。
感情に働きかけるアートは、混乱と混沌をもってくるから、ちゃうやつ。純粋な上と繋がってるアートにその癒しの力があるみたい、ボディーワークの世界と一緒やね。絵や音楽や、、なんか似てる気がするわ。