今日ちょっと施術してる時にふと思ったんですが、たぶん。”医療”って元々何だったんでしょーか?と、最近古い教会に行ったことがあって、、なんかすごかって。そのずっと先の歴史では病院だったらしいとの歴史があるみたいで、だいぶん古い。
巡礼の宿としても機能してたり、巡礼者の疲れを癒やし、病気を治し、、という役割のひと。治療家、がいてたはず。でも、治療家は今のような分業された治療家、医師、みたいな役割とはちょっと違う存在やったんちゃうかしら?
どんなひとだったんでしょうか?
なんか、イメージ的には、教会やし、そのひとも信仰を持ったひとで、たぶん、神へ祈りを捧げることに生きていたひとが、治療も宿もお世話もしていたんじゃないかしら。信仰心があって、神様へ捧げていて、人々に奉仕していた。
ただシンプルに、
上(神)へのつながりによって、全てが奉仕されていた。
そしたら〜。
”治療”ってなんだったんだろうか?と、
巡礼者への治療、手当て、薬草、植物による治療はされていただろうし、手技による治療も、もしかしたら、エネルギー療法的なのもやっていただろう。
で、患者さんは、巡礼者は治る。ありがとう、て、誰にいうんだろう?受け取る”人”は、ありがとうを受け取るのだろうか?神に捧げている信仰者、そして巡礼者、、”治療家”は神へ捧げ、人々に奉仕する人。”治療家”はありがとうを、想いを受け取ったりしたろうか?神に捧げている、祈る、奉仕、信仰心をただ行為にしていただけだったかもしれない。信仰心と信仰の道があっただけで、それをしてただけ。
謙虚さ、ハート、奉仕、、。オステオパシーみたいやね。たぶん、手技による治療が起こっていたはず。もちろん、植物療法も。”治療”をしたのはだれ?不思議なこと、奇跡が起こる、人智を超えている治療が起こる。今のバイオエナジェティックと同じ。それをしたのは誰?神への信頼と、感謝。
信仰が、治療。治療は、奉仕は、信仰そのものだった。
山奥に隠遁して、神の世界を歩む?隠遁する必要はない、治療こそが、神の世界を歩むことと同一、信仰だから。いまここで、治療する。奉仕する、それなしに、隠遁は、しないんじゃないかねえ。
原初の医療、治療家は、どういう生き方をしていたのかしら?
いまは、医療は、、その役割のものが担い、”治療”する。有資格者にしか”治療”する資格がない、と、言われる。治療する人は、役割を、治す、をやる。治すという結果をださなければならないし、クライアントは満足させられなければならない。治療者は、ひと。ひとが、治す。対価を受け、ありがとうを受け取る。
ネイティブアメリカンの植物療法、の講座でなんかいうてた気がするんですが、
セラピスト(シャーマン?)は、透明であり、誰にも気が付かれないように、自然と一体化している。ありがとうを言われたら失敗や〜、みたいな話。
どこでも、どんな信仰でも、原初は似てたのかもしれんなあ。
と、ふと施術中に
治療は信仰だった。治療は信仰の行為だったとなんかわかって、そのときは確信があったんですわ。知らんけど。
治療家は、信仰者は、、治療される人(患者)をみていたんじゃなくて、神を見ていた。すると、全ての人々が目にはいった、全ての人を見た。すべての人に奉仕することを、神への信仰の行為として行なっていた。
みたいなこと、あったんちゃうかしら、しらんけど。。
(なんかまずいな〜、、こんなこと書かんほうがええんやろうなあ。。)
別に僕なんか宗教があるとかないっすよ、無宗教、という部類っす。だいぶアブナイこと書いてる気がしてきた。。