何を話そう、
話をする。
セッションで、
お話をする。
10シリーズで、
あるいは、その後の継続セッションで、
お話をする。
すると、
話の内容が変わってきます。
傾向として、だいたいというか、、すべては
その時話せること、
今は話せないこと、
があります。
それは、意図的に選択しているわけでは
全然なくって。
自然と、話そうとしても、話せない、言葉が紡がれない。
あるいは、
自然と、話そうとしてはないのに、そういう話になり、話し出す。
会話する。
自然に、その時そのタイミングで
話ができる段階があるみたいで、そのように
なります。
たとえば、
”こういうワークは受けないほうがいいよ、それは、どうかと思うよ〜。。”
あるいは、
”この世界の真実、ボディワークから見た真の世界をお話ししよう。。”
と、思ってるとするじゃないですか、
そのとき、お話しする時と
お話ししない時があります。
話そうとは、します、が、
言葉が出てこない、
そのとき、
2つ、もしかしたら理由があるかもしれない。
ひとつは、相手が
聞こうと、やりとりしようと
関わろうとしていないのに、
言葉は通らず、出てもこない。
ひとつは、
流れがある、、それは、”ダメだ”と、話すとして、
あるいは、”本当の世界の秘密”を話すとして、
それを話そうとすると、コントロールが入り、支配が入るとき、(つまり、話し手のエゴ)
それは、その場に流れてこない。(自然の摂理にはエゴは持ち込めない。その場にコントロールは持ち込めない。話が出てこない。)
施術の方向性と逆行し、
エゴを肥大化させ、逆に解消から離れていく、、というワークを別で受けているとして、
それは、どうかと思う、、と話すこともあるかもしれない。
そういう流れが流れていて、それが自然の摂理なのなら。
それは、どうかと思う、、と思っているとして、
話そうとしても、そうはならない。話にならない。そういうこともある。
あるいは、
この世界のありようと、我々について
ボディワークの世界の、真の姿を、秘密をお話ししようとするとして、
どうしてもその次元の話には、ならない。そういうことは
意識の(?)段階によって、全然回路がつながらない、ということはある。
(たとえば、思考の外側の、意識の外側の話になろうとしているときに、思考から出てきて話そうという時に、相手がまた思考の中に戻っていってしまうと、その話にはならない。施術の段階によって、話が変わるというのはそういうこと、かもしれない。)
あるいは、気がつかないうちに
自然とそういう話になっていることも、ある。
ところで、
初回のセッションで、バイオエナジェティックの世界を
興味があっていろいろ質問されることもたまにありますが、
話に応え、お話しできるだけのことはしますが、
答えにならない、真の本当のことは、話していない。
話していない、と、話さないでおこうと、意図しているわけではなくて
そうならない。
それに、通ずるあなたの状態に
なっていないから。
そのチャンネル、そのレイヤーに
繋がらない場所にいるから。
こういうこともある、
施術と逆行する感情に焦点を当てるワークをしているとして、
それは、解消にはならない、、
でも、否定することはできない(そういう流れが流れていない)
だから、施術をするのみ。
いつしか、気がつく。
施術の流れが、逆行の流れを影響受けていないことに、気がつくことがある。
そのひとの在り方が、コントロールから自然体に、
本来の姿に近づいていく、
自然と、感情のワークからは離れていく。
あるいは、感情のワーク、逆行のワークをしながら、でも、
施術の流れが損なわれることなく、共存している。
そういうこともある。
あるいは、
施術を重ね、体が変わり、在り方が、
意識が、無意識が、より自然体になっていく。
すると、
自然と、そういいう体験を、
どこか、別の場所でされていたりする。
自然と、そういう考えを
お話ししてくれることがある。(驚き!)
エゴから、その先へシフトしたとき
世界観が、どの分野、何をしていても
似てくるみたいなんです。
だから、適切ではない時期に
適切ではないお話は、しないし、
しようとしても出てこないです。
すべて、そこには
学びがある。
おかしなこと、
危ないことからは
離れるように、お話ししますが、
その意図を超えたところに
流れがあることもあるのですね。
大きな学び、
大変なこと、
そこから学び
その地帯から出てくる。
そういうこともある。
あなたにはあなた自身の
選択がある。
選択しているようで、
自然の流れ、自然の摂理に
ただ従うのみ、
というのが
施術者の施術。
わたしのコントロールはいらない。
コントロールは自然の摂理を、
本当のことを乱すだけ。
自然の摂理が、
すべてを、正しい方向に向けていく。
(意味通じるかしら。。)