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神様の仕事

 

 

 

旅に出てから、投稿が多くなって、考えてることとかも出しちゃったり、、ぼちぼちやめにしよーっと。と、最後に、(かな?)

 

インド人が嘘ばっかりついて、こう、エモーションのフィールドで包み込んで、、嘘なんてわからない、”真実”で包んで、そーっと目的の方向に気が付かないようにもっていく、、というやつ、日本の普通の経済活動でやってることと同じやね。そーっとさらーっとコントロールして、当たり前のように、転がす。ていうのに、普通に気がつく今日このごろ。そういうふうにできてるのね、社会は。

 

これってなに?と、いろいろな活動にはやっぱり二つあって、静かに星空のようなお坊さんがいる一方で、別の”取引する”タイプのお坊さんがいるように。

 

面白いことがこないだあって、なんとバイオエナジェティック・オステオパシーの偽物が。バイオエナジェティックを学んでいる方から施術を受けて、試しに単発でうちに来られた方がいらっしゃったんですが、話聞いてると全くの別、教えてる人も別、でも名前が同じ。なんで、そんなことするん?て、思うんだけど、あるあるなことですよねえ。ロルフィングの偽物もあるし。ソマティックエクスペリエンスも学んでるらしいけど、それも全然ちゃうし。あるある、真実のものがあると、その偽物がいっぱいあります。そっちが流行ってたりもする、あるあるですね。。

 

効果があるから、偽物をやるのか、、?というと、もうちょっと別の説明もあるような気がして、説明というか、二つの世界の違い、が。

 

日本に帰ってきて、施術をやってると、やっぱり以前とは知覚の感覚の差がでてきたりして。(まあ、いろいろあったんでしょうねえ、気が付かないところで。だから、変わったのかもしれない、しらんところで。)

 

そういえば、ブッダガヤの菩提樹の下で瞑想してたとき、、あんなに意識を失うことはないくらいに、完全に意識失って(←眠って。)、、ばたーん!!て、左に倒れたんですわ。菩提樹の枝を支えてる鉄柱がいくつかあるんですが、その隣にいたので鉄柱に激突!!なんやーっ!!て、目が覚めて、左腕に青タンが。。そんなこんなで、あの旅は影響あったんでしょうかね。

 

帰ってきて、施術してたら、いくつか疑問でそのままだったことの答えがいくつかでまして、その中のひとつは、施術でどこまで、”やる”のか、何をするのか?疑問があったんですよ。ここ、ここ、こう、こう、、導きに従って、そのまま施術は進み、、終わる。けど、あと、「ここはみといた方がいい。。」ということ、あるじゃないですか?頭の知識ですが、感情的に混沌としてる時は、この辺見といて解放してあげる、みたいなことととか、、痺れがこの辺あるなら、この辺見とく、とか。知識があって、施術の流れとしてはもう見ない方が良いっぽい自然な流れ、、でも、見てみると、大きな解放があったり、深〜くはいっていって、次元が変わるような施術になったり、、?

 

どっちがいいのだろうか?というのが疑問だったんです。

 

結果、帰ってきて施術してみて、わかったのは、やっぱりやらない方がいい、ということ。やると、、なにかやっぱり半歩近くなっていて、自分がもらっちゃってたり、きれーな流れのままに施術が終わるのではなくって、どこかにもやもやに包まれている感覚。過去を振り返っても、やらなかったときでも結果良かったなあ、とか。

 

やっぱり、綺麗な流れに沿って施術してそのままの中で終わるのがいい。

 

(そう、あと、ロルファーだから、結果の構造をどうだ!?みたいな感じで見がちなことに気がついて、でも、それも、、施術が導きに従って進んで終わったのなら、それはもう神様がした仕事だから、結果がどうだ!?って見ること自体が、必要ないやん、、。て思ったり。導きに従ってたかどうかは、わかるから。。神様の仕事のチェックなんてする必要ないやん。)

 

この”感覚”が、違うんですわね。綺麗な流れのときの”感覚”と、”知ってることを試して”深い変化を起こしたようなときの”感覚”。

 

この感覚が示すものの差が、偽物と、本物の施術の違いと、似てるんです。

 

バイオエナジェティック・オステオパシーの偽物、なんでそんなことするん?という、何かしたい人の”意図”が似てるんです。”うまく”やれるし、こう、、現象を作れるんだけれど、、「だから?」て感じ。

 

それと似てる。

 

その立ち位置がわかるようになるには、そのトレーニングに参加することが大切だと思うんだけど、、そのトレーニングがもはや受けられないのなら、その学びを、それを取り囲む団体を通してつながるのはなかなか大変そうで、巡礼の旅に出た方が、ええんちゃう?

 

新しいテクニックや、正しいことや、答えをもらうような学びを経る度に、それをやりたい、やらねば、の「誘惑」が増してくる。なかなか、そこから外れた真実の静けさに従うのが、誘惑多くて大変になってくるよねえ。

 

ということで、学びより旅に出たい、、冬を超えて。

次は、源流へ!