昨日の話はまだまだつづきがあって
いろいろあったんですが
文字で書くと誤解もあるけど
忘れちゃうから
つらつら書いてみよう〜!
お金の話があったけど、
ふと、
想いがよぎるのが
思い出すのが
あれはどこかで読んだ本の内容だったと思うんだけど
戦争中のはなしで
日本が
満州だったか樺太だったかから
ロシアの南下とともに
撤退していく時
日本人の民間の人たちも
移住先の外国から
撤退して帰国していく。
移住先で
裕福になって
富豪になって
お金持ち、
その主人公の青年のお母さんのはなし
いくらお金を儲けて貯めても
なーんにも残らない、
だから
お金を貯めるんじゃあなくって、
身につくように、勉強のために使いなさい、
みたいな話。
お金を貯めることの
空っぽな現実、を
いいたいのではなくって、
だから、
身になること、
自分に吸収することを!
みたいなことを
僕が最近思うのは、
いいたいのではなくって。
それも、ちがうんだな〜。
と、
。
思うんですよ。
施術の世界のことや
その歩んできた道、歩んでいく道
そして、
最近の仏教系の旅のはなし。
そう、それは
結構いろんな世界に共通していて
根本は
みーんなつながっている。
その世界のお話し。
昨日の投稿で
いただく、ということについて
すこしお話ししたと思うんですが
そう、戴いたもの。
それは、自分のものではない、
ということ。
そう、それは、
たとえば、施術やら、勉強やら、、
お金を使って、身につけていくもの、
それも、
実はちがうんだ。
”身につけていく、”のではないんだ。
それも、
自分のもの、ではない。
そこから先は、
仏教の本やら山での体験になってくるんだけど
それは、一旦置いといて
施術の場面が変わってくる。
”自分のもの”、”自分の技術”
で、
施術する時
間違いが起こるんです。
自分の技術で、自分のスキルで
学んできたことで、それは、”自分でやるんじゃあない”という学びなんだけど、
その学びで、でも、
自分の学びから施術をする時
間違いが起こる。。
そして、
起こることを
邪魔してる。
ハハハ!?
そこから先は、仏教的な話し。
でもそれは一旦置いておいて
では、自分が学んできたこと
自分のスキル、がある。とき。
それすら、自分のものではない
戴いたもの、というのに
気がつき、シフトする時
施術がぜーんぜん変わる。
見えるものが変わる。
自分のスキル、自分の学び
それを奉仕のために、使うんだ、と
施術する時、
それは、まだ、すでに、
自分に所属する力として
使っている。。
それは、自分のものではなく
戴いたもの、
自分のスキル、とは
自分ではない、という次元、領域がある。
この自分のスキルが
自分が吸収したものではない、と。
それは、自分から離れたところに
ある。浮かんでいる。
自分ではない。なにか。
すると、自分の領域、
エゴの領域ではない
自分の領域、
自分ではない、
自分に、あるいは、”ソレ”に含まれている自分に
エゴの外側に、ある、それ。
浮かんでいる。
それは、
(また仏教的な話をしたくなるけど)
自分の中心にあって、自分ではない、そして自分であるところにあるもの。
そこに、ある。
浮かんでいる。
それをもって
施術をする時
施術が変わる、
人間の世界から
自然界、さらにその外側に行く。
すると、
受け手の体の中に
同じものがあることに気がつく、(知識として知ってはいたけど、そして、そのように施術をしていたけど)
それが見つかる。
焦りや
結果や
要求やら。
それは、、
それとは、、
そういうことでは、、
、、
(ぽっと、、外側に出る)
なにもない。
、、
この先は説明できません。
また、ある本の文章を
見つけたら引用しましょう。