身体教育
ロルフィングには施術により体を整えるという目的以外に、『身体教育』という学びの側面もあります。そして、10シリーズ完結のその後に続く継続セッションでも何かを知っていく、わかっていく、というプロセスは継続していきます。
ロルフィングの10シリーズでは、レシピに従い順番に体の部位が施術されていきます。そして、全体が統合されるまで、全身くまなくあらゆる部分が扱われていきます。表層の組織、深層の組織、そして全身の連動へ。部分は解放され、全体に統合される。これは、施術の側面です。一方、ロルフィングには『身体教育』という学びの側面もあります。
身体を知るという学びのプロセスでは、ロルフィングの理論から派生した知恵をその時々でお話しすることもあるかもしれません。それは、その場の流れやタイミングによります。
たとえば、座るときにどんなことを意識すると楽に座れるのか。あるいは、どんな目線を使うと楽に歩けるのか、など。そのお話ができるのには段階がありますので、いきなり初回からお話しできることはあまりないでしょう。たとえば、座り方をシリーズの前半にお伝えしても、まだできないと思います。シリーズも後半に入り、体の適応力ができてきた時に、できることがあるのです。
施術者がお伝えして、教える学び以外にも、自然と起こる学びがあります。とくに、10シリーズにより体が調和していくと、無意識のレベルでの学びが起こります。どのようにしたら、体はスムーズに動けるのか、楽に立てるのか、など。呼吸の仕方も変わりますし、重心も変わります。動きのパターンも古いものから柔軟な適応力のあるものになっていきます。それは、自然な変化。体の適応力の学びです。
たとえば、首の適応力と柔軟性が、気がつかないところで起こる。すると、後頭部と首の付け根には水平性を感知するセンサーが最も多い部分ですので、新たな水平性へと体の認識、脳のプログラムが適応します。それは、意識しないところで起こる、体の学びです。
ロルフィングは、理論による身体統合のプログラムです。それは、理論であり生命そのものの働きではありません。でも、生命の法則があり、その土台の上に人間の理論が存在します。はじめに、命があったのです。
理論や理屈、立ち方、歩き方、視線について、、と、物質的な表層の世界の学びも役に立ちますが、それよりもっと前からある、我々が生きているということについての、気づきによる学びがあります。
なんでしんどいのか、しんどくなるのか。不調とは何で、健康とは何か?どういう選択があり、何を選択してきたのか。でもその外側に、知識の外側に、真実がありそれを知る。何が、健康にさせるのか、何が調和をもたらすのか。それを、お伝えすることがあります。
生命の原則の世界、見えない現実の世界。何を意識して、何を知覚することができるのか、健全に向かい続ける回復力。癒す力はどこにあるのか。日々、どこにつながればいいのか、どういうあり方が助けを導くのか。自分と他者、自分と世界、そのあり方とは。自分はこの先、いま、どうあることを選択するのか。
それらの土台となっている、バイオエナジェティックの世界観をお話しすることがあるかもしれません。
知らないほうが良いこともある。体が整い、意識が十分に準備できていない時、伝えても誤解される。正しく認識できない。それが何を意味しているのかの、体感覚が育っていないので、何か別の”既に知っていること”を頭の中から探してきて当てはめてしまう。そうだと理解してしまう。頭の理解になっていて、全然別の何かとして認識している。そういったことは多いです。それは、自分も傷つけますし、他者も傷つける可能性がある。
段階がある。知るためには、そこまで変化してから。まだ、知らないほうがいいこともあるのです。
施術を受けることには、意味がある。
ロルフィング(ベーシック10シリーズ)の後のバイオエナジェティックによる継続セッションについて、その意味を書いてみます。
たぶん、別の施術も受けられている方に多いと思いますが、「次いつきたらいいですか?」とか「悪くなる前に来たほうがいいですよね?」とか聞かれることがあります。通わないと自分を維持できないとか、何もしていないと体が壊れていく、みたいなイメージを持っているみたい。
施術を受ける、ってそういうことじゃないんですよねー。
体は悪くなり続けていくものだ、という認識、それ違います。施術を受けて良くしてもらって、徐々に悪くなっていって、また施術を受けて良くしてもらって、またほっとくと悪くなるので、また受ける。だから、施術を次に受けなければならない、身体を持たせるための期間を決めようとするのでしょう。
でも、それ違うと思います。(もちろん、ある程度の調和のベースに到達していることが条件ですが。。)
わたしの施術では、体は放っておくと悪くなるという風には考えてません。マッタク。こう、どんどん下がっていく、体力は落ちるし、体は痛んでいくし、、老化するし、、みたいな世界観は持ってません。(すくなくとも、ある程度の体の調和に達し、外界からの負荷以上の回復力があることが前提ですが。)それとは、逆です。というのも、どんどん自分の中の健全の扉が開いていく、次の施術を受けると、さらに次の扉が開いていく。どんどん、元気になっていく。健康、健全の源、生命力と繋がりが強くなっていく。もちろん、老化や、日々の出来事、事故や怪我などもありますから、病気やワクチンなども、それら外界からの負荷に施術で対処することも大切です。しかし、問題そのものの解消以上に、体は、施術のたびに健全へ向かう力が増し、ステージが上がり続けていきます。
ですので、わたしの施術は、悪くなるものの維持ではなく、ステージが上がっていくことの助け。体の進化、さらなる健全の扉を開き、そして、更なる知恵、意識の進化。それが、わたしの提供するバイオエナジェティックを使った施術だと認識しています。
悪くなることを恐れるための施術ではありません。そう、まるで、学びのワークショップ。自分の興味のある講座をとって、その学びはやがて消えて失われるだけのものではないでしょう?もし、その後も継続的な学びや実戦をしているのなら、その学びから得た力は自分を助けてくれますし他者も助けられるかもしれない。その学びは、日々の実践の中で成長していくでしょう。
成長、それです!これは、成長の物語なのです。施術を受けることで、何かを学ぶ。施術を受けることで、体は自然体に近づき、変化する。そのワタシで日々を過ごすうちに、気づきが生まれる。無意識のうちにでも、必ず。その気づきによる学びは、施術者から直接聞いたことではないかもしれない。たまにあるのは、別の誰かや別の講座で次の段階へのシフトに必要なことを聞いたり知ったりすること。それが、今のあなたにヒットする。そういうこともあります。
もちろん、施術は悪い部分が治るためにという側面もありますが。バイオエナジェティックの施術は、方向性が違います。悪いもの、問題も、今のあなたを支えている部分の一つと認識しており、それは必要があって今そこにあるのだ、ということです。(それを、わたし(施術者)の都合で取り外してしまうことはできない、なぜなら、必要があってそこにあるものは、取りされる段階が来るまでは役に立っている。それを無理やり取り外すと、全体が崩壊しちゃうので、それに体は対処しなければならず更なる負荷を与えてしまう。)
バイオエナジェティックでは、問題の解消も健全の力が広がることにより起こると考えています。つまり、常に悪者をなんとかするのではなく、常に生命力(=健全、根源、光、自己治癒力、自己調整力、初めから備わり決して損なわれたり失われないもの)の広がりが、治癒をもたらすという考えです。悪いものを治して、また悪くなって、また直す、、というループではなく、、ただただ健全が広がっていく、施術のたびに健全に繋がっていく、あなたの状態が、あなたの意識が、光に近づいていく。
バイオエナジェティックの施術では、あなたを”変える”ことはできません。何かを注入したり、異物によるサポートをしたりはしません。すべて、あなたの内にある、あなた自身のエネルギーによる治癒を促します。
(たとえば、エネルギー的なブロックがあったとする。一般的なエネルギーワークやヒーリングではそのブロックに外側からエネルギーをぶつけてそれを解消しようとするかもしれません。でも、それは、あなた自身に外部のあなたではないエネルギーを入れ込んでしまっています。あなたに別の異物が混ざってしまう、あなたは治るかもしれないけれど、あなたは変えられてしまう?)
バイオエナジェティックの施術は、あなたを変えられません。治癒の源はあなた自身にあります。あなた自身の最も深い領域に満ちているその治癒の力が、現れてくるのを待ちます。内側から外側へ。そこに、外部や他社のエネルギーの注入はありません。あるのは、透明な観察者。その透明な観察者がいるから、内側の最も精妙なエネルギーはブロックを解消しながら外側に現れてくる。つまり、あなたはあなた自身で癒される。だれの、介入もない。
つまり、あなたの最も深いところにある、あなたの最も精妙なエネルギーがあなたを満たしていく。それは、決して他者に変えられた存在ではなく、あなた自身。あなた自身の、エゴを超えたところにある、純粋な存在、それに満たされていく。
それが、本当の変化です。それがなんだか想像つきますか?
なぜ、セッションが繰り返しではなく、成長であるのか。なぜ、ステージが上がっていくのか。
悪くなる前提の施術とバイオエナジェティックの違い、少しイメージできましたでしょうか。
ですので、わたしの施術の場合は、「まー、受けたいと思った時に来たらいいのではないですか?」て感じです。でも、ロルフィングの10シリーズを完結された方に多いのは、月に一度のペースくらいです。
わたしの感覚だと、月に一度くらいのペースはちょうど良い。といいますのも、変化をいい具合に積み重ねてどんどんステージが上がっていく感じがしています。たまーに、受けに来るより変化の連続性と進化にはそれくらいがよいかな、と感じています。
治療家として、治す。て、どういうこと?バイオエナジェティックの世界観で述べたように、歪みや問題は役割があってそこに配置されています。それらは、いま、必要であってそこにある。全体を支えている支点です。その支点たちは、別の意味で一体なんなのでしょうか?
問題の解消、それを目的に施術や治療を探すでしょう。医者に行ったり、ロルフィングを受けたり。いろんな食事療法や、エネルギー療法や。たくさん、いいものもあるでしょう。では、わたしたち地球にやってきた人としての、生命体にとって、その歪みや病変の役割ってなにか、もっと崇高なものがあるのかもしれない?
問題がある時、それに取り組み学びを得る。大切なことに気がついたり、生き方を改めたり。心の進化、魂の進化が起こることがあります。なぜ、今そこにそのことが表面化して現れてきたのか。そこには、ご自身の進化のための大切な学びとしての役割があるようです。
過去を振り返ってみても、たくさんの大きな出来事はわたしたちを成長させてくれたはずです。それも、飛躍的にとんでもない進化をしたはず。問題が大きければ大きいほど。そして、そこにはあなたのテーマがあったはずです。そのテーマがクリアされ、新しいステージに上がる。
しかし、そこから学び進化することがなければ、自身の内面の変化が促されず、外側の出来事に対して、人のせいにしたりしているうちは、同じような出来事が繰り返し続く。同じパターンから抜けられない。人のせいにしている状態から、何かが転換し自分が成長しなければ終わらない。
そんな経験、振り返ってみればみなさんやってこられたのではないでしょうか?問題(=歪み、病変)には役割があったのですね。精神の成長、魂の進化。
クライアントが要求している治療として、その問題を取り外すと、治療するとどんなことが起こるんでしょうか?その問題は繰り返し、同じ症状をまた持ってくる。
そして、治療家と患者という依存関係が生まれる。困ったときは、あの人のところに行かなければ。
それに対して、何か違うんじゃあないか?自分(治療家)のやっていることは、何か間違えているのかもしれない。治療の意味は?と、治療家の中には自問自答が始まります。そして、もう治療を受け付けない、と決める方もいらっしゃいます。
(わたしも、稀ですが施術で健全が広がり光に向かうことを選択せず、施術者に自分の感情の執着の依存先にし始めたという場合は、それ以上の施術をお断りすることがあります。何も美しいものは生み出さない混沌の渦に巻き込まれドロドロとお互いが腐っていく関係は健全ではありません。それは、怨念の世界です。我々は、すべての感情を去り、捨て、何もないが静寂な美しさに満ちている地点に向かおうとしているのですから。たとえば、嬉しい、楽しい、好き、などポジティブな感情であっても感情は感情、エネルギー的にはマイナスな感情とは波動のリズム、質感の面では一緒です。(施術の世界ではゾーンBとか液的フィールドと呼びます。)感情ではなく、感情を超えた我々のエゴを離れたところにあるエネルギー、たとえば、感謝、という地点に到達しようとしているのです。頭で作り出した感謝ではなく、満ちている誰のものでもないエネルギーである透明な感謝、です。)
病変(=歪み、傷、問題)を治すことが目的でそれを治療というとき、治療することで何が起きているのでしょうか?病変に意味があり、役割があるとき、それは、学びやテーマを持っていて、魂の進化に繋がるための機会となります。それを人の意思でこれは悪いものだ、いらない、と、取り去ってしまうとき、一件治療は終わったかのように見えますが、魂のテーマは残ったままです。その学びの機会を失ってしまった、この地球にやってきた魂。治療をそのような側面で見ることもできるでしょう。ある治療家さんは、人々の学びの機会を奪うことになる、と、治療をやめました。
わたしは、治すということについて、このように捉えてます。バイオエナジェティックの施術で自然と治っていくとき、魂の学びの機会を奪わない。なぜなら、バイオエナジェティックの施術は一般の施術のように外側から人の意思の力で受け手の体や病変を取り去ろうとはしないから。そこで起こっているのは、受け手の体の治癒力、生命のエネルギーのみで治癒が起こります。施術者は何もエネルギーを流し込まないし、異物を入れません。エネルギーの流れ、治癒の流れがあるのですが、それは、施術者が入れたものではなくて、もともと受け手の体の奥底にあるものです。外から内にエネルギーを入れ込んだのではなく、内側から外側へ自然と広がってきたのです。
他者の介入ではなく、自らの生命のエネルギーのみで治癒が進んでいく。バイオエナジェティックの施術者は透明である、のです。透明であることが、もっとも大切なことです。何もしない。足跡を残さない。これが大原則です。
すると、バイオエナジェティックで治療が起こった時にどうなるか?問題や病変は、その原因の存在するエゴの外側の領域から治癒されます。解消し、治癒が自らの力で進んでいく。そのとき、わたしが個人的に感じているのは、持っていたテーマに向き合い、それを解消していく時期をみなさんもっているのではないか、ということです。気づいていても、気づいていなくても、です。
しかし、もし受け手が感情に執着し、問題を見つめたり分析したりし始めるとそれをまた引っ張ってきてしまう。それらは過ぎ去っていくもの、過去を分析したり執着せず、流れて去っていくに任せる。施術後はそのように過ごすと良いようです。
病変のエネルギーは自分のものではない、外部から入り込んできた衝撃のエネルギーです。それが外側に返っていく時、治癒が終わり安定するまでの期間に、さまざまな体験をすることもあります。それは、意識的に知覚することもあるし、無意識のうちに起こり気が付かないこともあります。
たとえば、バイオエナジェティックの講座のなかで、クラスメイトがこんなことを先生に質問しました。その講座の3日目で、講座のテーマは子どものためのバイオエナジェティック・オステオパシー。前日にはモデルクライアントとして、赤ちゃんや幼いお子様の施術をさせていただきました。そのクラスメイトは、その日はハートが開きとても優しい感覚で、感謝が溢れたそうです。しかし、宿に帰り、翌日。なぜかわからないが、とても悲しい。ただただ悲しく、涙が止まらない。これはいったいなぜ?前日、子どもたちにあんなに美しい光を見せてもらったのに。
先生の答えはこうでした。あるところに、大聖堂がある。通路が十字になっていて、まっすぐ行くと洗礼を受ける祭壇がある。中央から右に進むと慈愛のマリア像が。左に進むと十字架に磔にされた苦悶のキリスト像が。十字の通路の中央は不思議な感覚、異世界、テレポーテーションできるような空間。あなたのハートが開き、より慈愛を感じるようになると、同時により苦しみも感じるようになる。ハートが開き進化していく時に、感情をより感じるようになることがある。そのとき、感情に飛びつき、巻き込まれ自分を失うのではなく、自分の中心、ハートの中にいる。苦しみや感情はただある、わたしはハートの感覚の中にいる。そこから離れない。いつしか、それらの感情はハートの空間で混ざり合い、やがて次の段階にシフトし進化する。
学びとは、ハートとは、そのように起こるのです。
ここでいうところの『ハート』とは一般に思い描くような感情的なものではないです。優しいとか愛情とか人間の感情のレベルではない、意味づけのない領域です。愛情ではなく愛。想いなど持ち込めない、ハートチャクラの静けさ。
癒しとは、進化とは、シフトとは、感情のレベルの世界ではない。
感情は混沌を巻き起こし、良いものは急に反転して悪くなる。さっきまで大好きと言っていたのが反転して憎む。逆もそう。振り子のよう。そして、他者とエネルギーを奪い合う。有限のエネルギー。まとわりつく、執着の世界。
癒しとは、進化とは、シフトとは、ハートの世界。ハートのエネルギーの世界。静寂と美の世界。そこに感情は入り込めない。ワタシという個人が消えた世界。
バイオエナジェティックの施術の領域はハートの領域。そこは、エゴの外側の世界。生命の秩序の世界。
自然界には秩序がある。水は高いところから低いところへ。自然界の背景には、それを司る超自然界がある。そこでは、人間の意図や考え、感情、思考、理屈などは通用しない。それらを持ち込もうとしたとたん、弾き出される。その世界で施術をする時、これを取り去ってしまったら受け手の学びの機会をうしなってしまうのではないか?などとは考えることはない。そんな次元にはいない。
個人の思考や感情が入れない次元にいる。目の前に、やるべきことを示された、病変の支点である健全の光を見つけ、健全(=生命力の根源)のフロー(流れ)により病変を解消しようとしているとき、ワタシの個人の想いや意識や意図は働かない。ただ、指示されたことをやるのみ、そこにとどまる必要があり、病変の混沌の引力に全てをかけて耐える時、なにも個人の意図はない。ただすべては、このフローの中にある。
ひとは少しずつハートを開き、進化していく。そのための、学び。そのための、施術としての役割。